2016年2月13日土曜日

コミュニケーション能力とかが論点になっているって、どういうことなのか?

コミュニケーション能力とかが論点になっている世の中って、一体どうなっているのか?
とつくづく考えます。

今や、ネット世界になって、それはまさに檻の中にいるような閉鎖的で、出所がわからない情報に左右され、同じ価値観、同じ文化、同じ方向を見ている人たちだけのコミュニティが形成されるために、コミュニケーション能力とか交渉とかは無くてもよくなっているのでしょうか。















交渉と言えば、
アメリカで部屋を借りるとき、何だかものすごい交渉を行った記憶があります。
異文化で、まったく価値観が違う外国人に、はたして部屋を貸し、同居するだろうか?
(もちろん、家賃が高かったり、外国人用のアパートならその苦労はありません。)

ボストンで、交渉に、交渉を重ねて、ようやく見つけたのが、下の建物の3F、家賃は月280ドル、大家は政府の職員で、何でも相談にのってくれて即断即決の人でした(マサチューセッツ州政府のポスターになっていた人なので偉い人かもしれない…)。












ボストンの家賃を知っていれば、月280ドルと書いて、ケタが間違っているよ!と注意されるかもしれませんが、確かに280ドルでした。敷金も礼金もなく、長期契約もありません。

しかし、外国人がこういう場所を探すのに、並大抵ではない努力をしなければなりません。
危機的状況で頼みになる中国、韓国、ベトナム、タイ、インド、モンゴル、アラブ系、そして海上で仕事をしている人たちからの情報を集めました。当時は、インターネットも整備されていないし、中国は今のように経済成長していなかったので、貧しい留学生が多く、だからこそ強力な空き部屋のネットワークを持っていました。意外に敵国同士のドイツやイタリア人も協力してくれることがありました。

ニューヨークでも同じような経験をしましたが、やはり都市部での生活って、こういった交渉の苦労があり、それをクリアしなければそこの市民になれないというハードルがあるような気がします。

現在、グローバル社会で求められている人材って、この「クリアできる人」たちのことです(英語の能力はほとんど関係ありません)。