2016年11月6日日曜日

Twitter と文芸批評、創作

文芸批評という分野はまったく流行らなくなったので、現在のメディアが新しい分野への「開拓」という路線はほぼ失っています。

それでも、Twitter 等のような表現手法は常に増産されてはいます。
このSNSをみればわかるように、同じネタの繰り返し、以前のネタが再来することによって維持されています。(そこがTwitterの面白いと思えない理由)

もともと「新しいもの」を創作しても、それが「新しい」と認識できる人間が少なければ何も価値がなく、現在では「新しいもの」を認識させることとその人の資本力やブランド力などのビジネスと結びついています。

通常、認識可能な「新しいもの」というのは、実は「組み合わせ」であって、既存のものをとりあえずバラバラにして、別の組み合わせるにする。

その組み合わせも極端な方が良いわけです。たとえば、可愛い女の子と軍服、重圧の環境で食べる軽いスナック菓子など。

大柄の男が軍服を見ても図版としても認識は低いけれど、可愛い女の子と軍服では組み合わせた際のその距離感が大きいので、人間の視覚はその実態ではなく距離感の方に力点があることがわかるはずです。(その距離感を修正しようするために必要のない思考が機能してしまう-人間の脳が言語的な収束よりも先に、算術的な処理が行われているのです。)



学生の面接では、実体験に基づいた話をした方が望ましいというのは、実体験の場合は元ネタがないからです。

逆に、決まり文句みたいなキレイごとには必ず元ネタがあって、それは何度もも繰り返し刷られたものなので、ある程度の読書家にはその言葉がどこから来たものなのか、ルーツがわかってしまうのです。
特に人事担当者であれば、旅行と読書がセットになるので、地理とネタの宝庫のような人材が多いのです。(そこらの旅行会社の社員より人事官僚と話をした方が旅行の話が豊富に聞けます)

元ネタがわかるものは、距離感を失い、自己の記憶よりも稚拙と認識されるはずです。